聖アンダリム神学院に通うヴィエラ族の青年はグリーナーになる夢を見ていた。ある日、シャーレアン魔法大学から臨時講師が派遣される。二人の間には他の院生にばれたくない秘密があって──。
恋慕ゴールデンドロップと一部話が繋がっています。先にあちらを読まれることをオススメします。

◇先生×生徒の妄想話。
◇ヴィエラ♂×ヴィエラ♂
◇ジェンダー配慮にかける表現があります。

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A bad man and a bad boy

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プロローグ

 時は遡り、クガネの夜。仕事を終え、潮風亭の席に座ったヴィエラ族の男が運ばれてきた酒に眉を曇らせていた。
「濃い……」
 男は普段からあまり酒を嗜まない。なのに、どうしてまたそんなものを飲んでいるのかと言えば、ひとえにオールドシャーレアンに帰りたくないからだった。
 ただでさえ、のらない気分なのに、クシュッと口から漏れたくしゃみがさらに男の気分を害した。
 ──経費でエリクサー代も請求してやる。
 知識の化け物達が暮らすオールドシャーレアンには世界最高基準の叡智を誇るシャーレアン魔法大学がある。そこのとある教授の専属グリーナーとして雇われている男の今日一日はといえば、ずっと海にこもりっぱなしだった。
 頼まれたサンプル採集は光も届かないような海底に生えるもので、採ってくるのに半日以上かかってしまった。
 水中で呼吸をする為の甲人族の儀式、続いてサンプル採集までをすべて一日で終わらせた大変さは筆舌に尽くし難い。
 サンプルの水草を手に地上に上がり、砂場でシャツに染み込んだ水を絞っていた時にふと、思ったのだ。少しくらいゆっくりしていったっていいじゃないか。
 こんな状態で、オールドシャーレアンに帰ってあの教授にサンプルを渡すと思うと、気が滅入る。今日は休んで明日戻れば十分だろう。
 グリーナーはポケットに入ったメモ用紙を取り出した。
 それは教授からもらったサンプル採集リストだった。旅の途中で所々破けたり土で汚れたりしているが、文字が書かれた部分はしっかり確認がとれる程度の汚れだった。
 既に採集が終了した品々をさっと眺めた後、メモ用紙を裏返した。
「はぁ」
 リストの裏に、少し薄い鉛筆痕がある。
 ──なるべく早く帰ること。
 そんな小さなメモ書きすら抵抗したくなる。
「どうせ、早くサンプルが欲しいだけだろ」と呟く声は海風にさらわれ、誰にも届くことなくむなしく消えていく。
 そうして半ば反抗心で訪れたのが潮風亭だった。
 ──だいたい、なんで旅先の夢にまで出てくるんだあの悪魔は。
 濃いと言いながらも酒を口に運びながらも、グリーナーの内心はあまり穏やかではなかった。
 サンプル採取で二週間ほど会っていなかったはずの教授がしかし、グリーナーの夢に度々現れては悪夢を見せてくる。

 自分よりも頭一つ背の高いヴィエラ族。灰色の肌をした教授が似合わない真剣な目でこちらを見つめる。ゆっくりとした動作で左手を取られ、大ぶりの光石がはまった指輪をそっと薬指に嵌めさせられる。
 夢の中でグリーナーは指先こそ抵抗一つできないものの何度も何度も言うのだ。
「やめろ、なんの冗談だ。手を離せ」
 しかし、教授は終始グリーナーの言葉を愛おしそうに聞いたまま何も答えず指輪を嵌める。そっとグリーナーの指に口づけるものだから絶句ものだ。

 現実のグリーナーはというと、そんな悪夢に思わず飛び起きてしまうのだった。
 三日に一度。いや、もっとかもしれない。昼、仮眠をとる時に見ることもあった。
 多分、教授が最近やたらとグリーナーにエターナルバンドの誓いをしようと誘ってくるのが原因だ。つい先日もラストスタンドのいつもの席でコーヒーを飲もうとしたところで教授は言った。
「ねえ、そろそろ指輪が欲しいと思ったりしないの?」
「いりません」
「なんで? 便利だよ。グリーナーをしている君は世界中を採集物目指して駆けまわる。体力を削って採集し、へとへとでもまた指輪を使えばすぐに私の元に帰ってこれるじゃないか」
 便利で効率も良くて、最高としか言いようがない。教授は研究レポートを眺めつつ、コーヒーを飲んで言った。
「そういうところですよ」
「何が?」
「わからないならいいです。……せっかくあんたから離れてる貴重な時間を指輪一つで削られるのは嬉しくないですよ」
「それは残念。君のタキシード姿を見たかったのに」
 ああ、実に残念だ。そう言ってまた何事も無かったようにコーヒーを飲む男に溜息をついたのがつい二週間前のこと。
 あんな男から指輪を嵌められる夢、ただの悪夢だ。
 大体、タキシード姿が似合うのは俺なんかよりも教授の方だというのに。嫌みにすら聞こえる。
 ぐびっと、喉が焼けるように度数の濃い酒を飲み込んで、ドンッとお猪口をテーブルに置く。今日帰らなくて正解だったと心の底から思う。
 凛と通る女性の声が聞こえたのはその時だった。
「星の力で占いましょう。未来、過去、現在、失せ物。私が全て解き明かしましょう」
 隣のテーブルで、小袖着流しを着た漁師らしき男の正面に座るのは黒装束のアウラ族だった。
 その相貌からして占星術師だろう。占星術師は細い人差し指で天球儀をくるりと回す。
「ちゃんと占えたら一万ギル払ってやるよ」
 漁師は眼の前にドンと金貨袋を置く。そして、隣に座る恋人の女性の肩を引き寄せて下品に笑った。
「何を占いましょう」
「最近やたらと、赤い着物を着た女に首を絞められる夢を見るんだ。この夢が気味が悪くて仕方ない」
「わかりました。夢が暗示しているものを、見てみましょう。では、ご覚悟」
 ──夢占いか。また珍しいものを。
 占星術師は天球議から三枚タロットカードを引き、机に並べた。一枚ずつ漁師に見えるようにめくっていく。
 おそらく一枚目はオシュオンの矢、二枚目にハルオーネの槍と続いた。三枚目はグリーナーの席からは料理や酒が遮って見えなかった。
「その夢は、予知夢にございます。貴方の心が浮いておられる。他に向いている。つまりはそちらの女性に黙って浮気しておられますね」
「何だと? 俺が?」
「お相手は、無地鼓座の……見えましたわ。女形の役者の方ですね」
「あ?? この俺が女形の役者に惚れてるだと? ふざけてるのか」
「あら、間違ってますか?」
「間違っているも何も、この人は演劇なんて見るような人ではないんですよ、占星術師様」
 漁師の連れの女が慌てたように言った。そうでしょう? と漁師の顔を気にして見つめる。
 —ああ下らない。しょうもない盗み聞きをしてしまった。
 グリーナーは隣席の話に飽きて、すぐさま席を立つ。
 こんなところで無駄な話を聞いているくらいなら。露天風呂にでも入って寝てしまおう。
 さっさと鞄を背負い、階段から降りている途中だった。先程、グリーナーが座っていたテーブルの辺りが騒がしくなってきた。
「イカサマだ。このエセ占星術師め」
 酔った男の口ぎたない罵倒が聞こえる。
 ──あんなのと関わりたくない。席を外して正解だったな。
 遠ざかるようにしてそのまま階段を下れば、直後、先程のアウラ族の女が上階から一階まで飛び降りていった。
 一階まで美しく、そして優雅に、見事着地した占星術師はそのまま闇夜に溶け込んで消えて行った。
「占いなんて下らない」
 呟いた言葉に嘘はない。
 下らない。そんなものに金をなげうって、すがって、一体何になる。今抱えている悩みが解決されるはずもないだろう。それに夢はあくまで幻想に過ぎない。現実とは似ても異なるものだから。
 もう考えるのをやめよう。そう思いクガネ名物の露天風呂に向かった。
 銭湯の暖簾までもう目の前の所で背後から声を掛けられる。
「貴方、さっき隣にいたわよね」
 振り向いた先にいたのはアウラ族の女だった。先程の占星術師の声だが、しかし装束は解いていてすっかり浴衣姿になっていた。長い艶のある髪が夜街の光に晒されてラベンダー色だとわかる。
「さて、どうだったか。イカサマ占い師様のテーブルの隣ではあったが」
「あら、イカサマだなんて。やめてちょうだい。私の占い、ちゃんと当たるのよ。ねえ、そうそう。さっきもう一度占ってみろって言われたから、あの漁師を占う振りをして貴方を占ったの」
「勝手に? 迷惑だ」
「独占・支配・依存」
「は?」
「貴方に見えたの。ねえ、もしかして何かに悩んでいるなら占いましょうか?」
「あいにく占いに頼るのは御免でね。放っておいてくれ」
「あら、それは残念」
 ならもう行くわね。そう言って女はあっさり望海楼へと歩いて行った。
 いい迷惑だ。別に、本当はわからないわけではない。自分の気持ち。心の底にある思い。なんで悩んでいるのかも、本当は自分で手にとるようにわかっている。
 だけど、それを認めようとすればする程に考えてしまう。
 教授との出会い。辿ってきた道。全てがまともじゃなかったということを。

♢♢♢

 シャーレアン魔法大学から特別講師として呼ばれた先生は、とても美しく、聡明で、どこか怪しい。
 イシュガルドにある聖アンダリム神学院。荘厳な雪の中、そびえ立つ学院。寒々としたその建物の中で、しかし女生徒達は皆あの教師に熱い視線を向ける。厳正なる図書室ではやれどこの廊下ですれ違いざまに視線があったの、やれ声をかけられて手伝いをさせられただのと浮かれた声が飛び交う。例の先生がねと生徒達が色めくたびに全くいい迷惑だと思う。
 少し猫背。ヴィエラ族特有のフェイスペイントはエオルゼア諸国では珍しく、異国情緒漂う。優しそうなたれ目が微笑むと、どこからともなく絶妙な可愛さが浮き彫りになるのだと図書館で女子達が騒いでいるのを聞いて、読んでいた本をパタリと閉じた。
 あれはそんないいものなんかじゃないのに、と心の中で呟く。
「ああ、君」
 図書館から出て「もう帰ろうかな」と思いながら冷たく底冷えする廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。その声にビクリと肩が震える。
 ほら、来た。
 偶然を装うような素振りで夕刻。
 図ったように誰もいない廊下で。
 こうして時々呼び止められる。
 ゆっくりと振り返ると、女子生徒が噂していたまさにあのヴィエラ族の教師が、ニコリと微笑んでいた。自分と同じヴィエラ族でもこうも違うのかと思う。見上げる程の背の高さに、スラっと長い脚でこちらに近づいてくる。
「なんですか、先生」
「今日も図書館に行ってたの?」
「はい。ですがもうここの書物は大体読んでしまったので退屈なんです。読んでいないのは紛失した聖アンダリム神学院記くらいですよ」
「君は本当に勉強熱心でとても良いね」
 くすくすと笑う教師。一体今の話のどこが面白いのかさっぱりわからない。
「はぁ……要件がないなら、話しかけないで下さい」
「つれないなぁ。要件ならちゃんとあるよ。昨日ね、シャーレアンから最新の研究レポートが届いたんだ。君はグリーナー志望だっただろうから興味があるだろうなって思ってね」
 来るよね? と、こちらが拒否するわけがないという言い方にイライラした。その口元の笑みに、疲弊する。
「悪魔」
「なんか言った?」
「いいえ。何も」
「ならいいけど」
 さぁ行こうか。
 まるで淑女を導くかのように、腰に軽く手を添えられ教師の常駐する部屋の方へと誘われる。
 ああ、頭がクラクラする。行っては駄目だと警告する頭とは裏腹に足は一歩一歩着実に教師の部屋に向かっていた。

「資料はあちらの山と、こちらの山と、あとはその箱。箱の中身は危険物だから触らないように頼むよ。悪いけどその箱の向こうの資料をとってもらえるかな?」
 隣りにある箱から時折ガウガウと声がする。何かの生き物だろうか。聞いたことのない鳴き声だ。箱を避け向こうの資料を取ろうとして、足を引っ掛ける。転びそうになったところを力強い腕に支えられた。
「ほら、危ないって言っただろ」
「っ……すみません」
 耳元で囁くように言われ、心臓が跳ねる。
「君は存外おっちょこちょいなのかな」
「そんなことは……たまたま引っかかっただけで」
 一瞬、耳に何かが触れる。触れられたのとも違う感覚に、多分、教師が耳に口づけをしたのだと察した。ビクリと体が反射的に動いてしまい、いたたまれない気持ちになった。
「あの、先生」
 あぁ、ごめんねと、やっと腕から開放されたのは良いけれど今一体自分がどんな顔をしているのかと思うと焦って、教師の顔をまともに見れなくなる。
 固まっていれば、長い手が背後に伸び、先程取ろうとしていた資料をひょいと取る。そんな簡単に取れるなら自分で取ればよかったのにと内心穏やかではない。
「あっちの資料は明日には君に貸してあげられる。今日はこれを持っていくといい」
 いくつか資料の束を手に持たされる。
「お借りします」
「うん。さあさあ、誰かに見られては僕の立場も危うくなる。早くしまってしまった方がいいよ」
 教師の言葉を聞いてから頷き、持ってきた鞄の中に資料を入れた。
「僕も案外悪い大人だよね。シャーレアンの極秘書類や秘密文書を教え子に見せてあげるんだから」
 しばらく、沈黙が続き、溜息が出る。
「そんな風に言わなくたって、約束は守りますよ」
「約束? これは約束なんかじゃないよ。君が決めてやっていることだ。秘密文書を見てしまった罪悪に耐えられずに自ら、ね」
 とぼけたような物言いに、思わずムッとする。
「ずるい言い方だ」
「君は、悪い子だ」
 間髪入れずにそう言われて、やっぱりこの教師は悪魔だと思った。
 鞄を置き、部屋の扉に鍵をかける。振り返り、真っ先にいけ好かない男の前に立った。襟元をぐいと寄せ、背伸びしてやっと届くその唇に静かにキスをした。

♢♢♢

「ねぇねぇ、最近帰る頃になると、窓辺に先生よく座ってるよねぇ」
「あ、それ、私も見たよ。先生はヴィエラ族だからすぐにわかっちゃう」
「こっち見ないかなぁって思ったんだけど振り向いてはくれなかった」
「残念だったね。振り向いて笑いかけてくれた日にはもう私達どうなっちゃうんだろう、なんてね。こんなことお母様には絶対に聞かせられないわ」
 例えば彼女達に、その背中はあんた達が崇拝してる先生なんかじゃなくて、俺だって言ったらどんな顔をするんだろう。
 しかも背中を向けて座っているのには理由があって、もっと屈辱的なことをされているんだなんて囁いてみたい。彼女達はきっとまず驚くような顔をして、次に絶句。終いには泣き始めるのだろうな。想像だけして、満足したのでそこまでに止めておいた。

「奉仕とはサービス精神のことであって、目上の人間やお得意様に対して行うものだ」

 ああ、また何か企んでいると思った。シャーレアンから臨時で来ている講師。通称悪魔。その悪魔の部屋に通い始めてもう何日になるだろう。
 得意げに奉仕とは何たるものかを口にして、女子生徒を魅了するたれ目の弧がさらに深くなる。その意味を理解できないわけがなかった。
 この状況で「例えばどんな?」なんて気軽に質問することさえも厭われる。
「俺とは無縁ですね、先生」
 笑顔には笑顔で。まっすぐに教師の顔を見て言ったのに、何事もなかったようにかわされる。
「無縁などではないよ。先日君はイシュガルドの名産、アルビノカラクールのフリースを取ってきてくれたじゃないか。しかも、良質なものを、ね」
 瞳の中にキラキラと光が見えるんじゃないかと言う程、嬉々としてそう言う。その瞳は研究者のそれで、流石はシャーレアン魔法大学の教授だと思ってしまう自分はだいぶちょろい。
「それはそうですけれど、あれは先生がグリーナーになる予行練習として、採ってこいと言ったものじゃないですか」
「そう、頼んだのは僕だ。だけどこれはグリーナーとしての立派な仕事だよ。だから、どうだろう、僕が奉仕してさしあげようかと思うのだが」
「結構です」
「ええ? 本当に?」
「いつもシャーレアンのレポートを読ませてもらってますし、それで十分です」
「でもね、僕はそのフリースを資料としてオールドシャーレアンに送った。これは十分に公式的な取引になり得る」
「……今度は何をする気ですか?」
「君は本当に物わかりがいいよね」
 そういうところが好きだよ。
 好き。最近やたらと口にするその言葉に、一体どんな意味が込められているのか。遊ばれているような、バカにされているような気分になる。心のどこかで違和感を感じながら、その違和感を無かったかのように無視した。
 俺を窓辺に座るように促すので、はぁと、溜息をついてそれに従う。
 ちょうど夕日が落ちて、窓辺に青い夜が差し込む時間。帰路につく生徒達はまだいるのだろうか。
「大丈夫、外からはシルエットしか見えないよ」 そう耳元で囁かれた。自分がしきりに窓の外を気にしていたのを、見られていたのだと思うと赤面してしまう。
「本当に、何する気なんですか」
「それはこれからわかることだよ」
 細くて長い指先がつーっとなぞるように太腿に触れる。こちらの反応を楽しむようにして、すぐに指先が離れた。
「声、抑えなくてもいいよ」
「別に、声なんか……」
「さて、強情な君がどこまでもつか楽しみだ」
「奉仕なのに、もつっておかしいだろ」
「ん? なんか言った?」
 またいつものように聞こえないふりをする教師。この悪魔めと、心の中で悪態をついた。
 教師はゆっくり両足を広げ、間に割って入りそこにしゃがみ込む。こちらの表情を確かめるように覗き込んでくる。その瞳から思わず目を逸らした。抵抗が無いとわかると、教師がファスナーに手をかけた。やっぱりそういうことかと焦る。今なら抵抗すればまだ間に合うのに、教師の手を制さない自分にも辟易とする。
 教師が横髪をかきあげる。息を吸い込み、パンツから出されたそこをそっと舐めた。裏筋から先まで音を立てて吸われて思わず袖で口を覆う。
「んっ……あっ……」
「ほら、声。我慢しない」
「そこで……喋るな」
 こんなこと、教師としてもいいのだろうか。否、駄目に決まっている。それなのに、どうしても呼ばれればこの部屋に通って行為を許してしまう。放課後、一人でいる廊下で、もしかしたら呼び止められるかもと期待してしまう自分がいる。
 単にシャーレアンのレポートが読めるから。教師がしつこいから。本当にそれだけなのか。わからない。わからないけど、俺はやっぱり“悪い子”なのかもしれないと思う。
 腰から痺れるような衝動が湧き上がり、思考が掻き消される。気がつけばスラックスが膝まで降ろされていた。露わになった太ももに時々啄むようにキスをされる。
 紅く、アザのように残る唇の形。口づけのあとにわずかに残る痛みに、頭が狂いそうだった。

♢♢♢

「だるい。サボりたい。足元がすーすーする」
 普段履くことなんてあり得ない女性物の服を着ている。しかも、ひらひらのレースがたっぷりついたメイド服。もちろん自分から好んで着ているわけではない。断じて女装趣味があるわけではないし、女性になりたいという願望もない。
 ならば何故、こんな服を着ているのか。これにはしっかりとした理由があった。

 イシュガルドの復興。それは竜詩戦争で傷ついた国をエオルゼア諸国の職人が集まり修復する事業。その大修繕がついに終わりを遂げた。
 復興の祝祭として始められた祝い事──フェトゥ。聖アンダリム神学院の生徒達も、ボランティアとして、そのフェトゥとやらの運営を手伝うことになった。
 ここまではまだ良い。イシュガルドに住む民として、聖アンダリム神学院の生徒として、ボランティア参加は当然のことであり、義務だからだ。しかし、問題はここからだ。
 どうしてこの服を着てフェトゥに参加することになったのか。その服選びをした張本人が誰なのかという話である。
「君達のバトラー姿が見てみたいかな。時に凛々しく、パンツを履く女性はこれからの未来をも担うだろうね。フェトゥでは是非君達学生諸君がこれからのイシュガルドを担っていくという強い意思を見せつけてやるといい」
 風の噂によると、あの例の教師が女子生徒にフェトゥについて相談された際、そう答えたらしい。その何気ない教師の言葉は女子生徒達の魂に火をつけてしまった。
「先生がそう言うなら」と溶けたバターのような表情をし、顔を赤らめた女子生徒達。そんな彼女達に異議を唱える男子なんているはずもなかった。
「私達がバトラー服ならば、逆だとやっぱり男子生徒がメイド服というのが妥当ですわよね」
 筋が通っている。通ってはいるが、しかし、大変遺憾である。
「それでは強制感が否めませんから、各々選択式にしては?」なんて、そんな提案ができるくらいなら良かったのに。論破は想像の中だけに留めておいた。こういう手の話は運営側に回れる程の気力と体力がない限りは反論するものでないと、自分の中の面倒くさい精神が物語る。
 こうして、俺達男子生徒はメイド服を着て、時代の最先端を行く学生というなんともいえない恥ずかしめ、否、イシュガルドに新風を巻き起こすことになってしまったわけだ。最悪だ。
 フェトゥ当日。
 長く竜との戦いで疲弊し続けてきた国とは思えない程に、イシュガルドの人々の顔は笑顔で溢れている。
 しかし、人波に揉まれるのも人となれ合うのもあまり好きではないし、ましてやこの服だ。正直言ってそろそろ帰りたい。
 気がつけば人気の無い高台まで歩いて来ていた。
 人一人いないこの場所は、グリダニアの森と少し似ている気がした。風が通り、人混みよりも断然呼吸が楽だ。
 ベンチに座り、晴れ晴れとした空に向かって呟く。
「帰ってしまおうか」
 誰もこんな場所まで来るはずもない。そう思っていたのに、誰かが高台までの坂を上ってくる足音が聞こえた。コツコツと革靴が石畳を叩く音。一体どんな物好きが現れるのだろうかと思えば、現れたのはまさに、このメイド服を着ることになった悪の根源。
 あの憎き教師だった。
「君、こんなところにいたの?」
 偶然のような顔ぶりで、どうせ偶然なんかじゃないのではないかと疑ってしまう。
「先生こそ、こんなところに油売りに来ていいんですか?」
「あの場所に僕は必要ないよ。そもそも臨時講師なのだから、院の名を上げる為のボランティアになんて参加しないよ」
 そう言いつつも、今日この場所にちゃんと来ているじゃないかと心の中でツッコミを入れる。
「そんなムッとした顔じゃなくてニコッと笑わないと。今日は祝祭なのだから」
「別に祭なんてどうでもいいです」
「やっぱ君はグリーナー向きだよ。人波に揉まれて何かするよりも、採集や観察してる時の方がずっと楽しそうだからね」
 許可も取らずに横に教師が座る。隣を見ないようにしながら、俯いてフリフリのレースを見ていると不意に頭をぽんぽんと撫でられる。
「今日は少し拗ね気味かな?」
「そんなこと、ありません」
「もしかして、この間のことで怒ってる?」
 この間こと、とは、突然奉仕の何たるやを語りだしたあの時の話。奉仕とは別に報酬としてギルを渡されそうになって、俺は即刻、拒否した。金に困っているわけでもないし、報酬金を受け取ってしまえば、単なる奉仕の口止め料みたいで気乗りしなかったからだ。そうして何も受け取らない俺の手には、気がつけばエオルゼアにいては手の届かないような貴重な本があった。
「どうしてもギルは受け取らないって聞かないから、わざわざ君が喜びそうな本を取り寄せた。ちゃんとあの後、君には報酬として珍しい古文書をあげたじゃないか」
「……お金より本の方が嬉しかったですよ。それに、別にそんなことで怒ってなんかいませんから」
「それなら他に君の不機嫌の原因を探さなければならないね……あぁ、もしかして」と、然もわざとらしく言う。
「その服のことかい? 女子生徒に相談されて少し悩んだのだけれど、教え子達には時代の最先端をいって欲しくてね。アドバイスさせてもらったよ。それにしても君……ふふ、そんな嫌そうな顔をして、全く想像通りだった」
「誰のせいでこんな羽目になったと思ってるんですか……?」
「怖い怖い。あまりそう睨まないでくれよ。本当に悪気はなかったのだから。それに、嫌なら反論をしていかないと、これからの人生も搾取され続けるよ」
 悪魔めと、隣の教師を睨みつける。
 教師はいつものようにイタズラっぽい笑みを浮かべている。こちらを見透かしたようなそんな大人びた視線。こういう年の功みたいなのが、ずるいと思う。羨ましいとさえ思う。
「まぁ、そんな説教じみたこと、僕も言えた口じゃないけどね」
 違和感を感じたのはその時だった。教師の灰肌が、少しだけ青ざめている気がした。
 詮索するつもりなんて一つもなかったけれど思わず聞いていた。
「あの……体調でも悪いんですか?」
「え?」とびっくりした顔の教師がすぐにまたニヤケ顔になったのを見て、後悔した。
「なんともないなら別にいいです」
「いや、少しだけ気分が優れなくてね。高いところなら気分が良くなるかなと思って気分転換に来てみたら先客に君がいてびっくりしたよ」
 この人ももしかして、人混みから逃げてきた? ふとそんなことを感じて、イヤイヤと否定する。そんなわけがない。学園ではどんなに忙しくても無下にせず女子生徒の対応をしているし、一人でいる方が少ない教師だ。人混みが苦手なんてまさかあり得ない。この悪魔にそんな普通の人間らしい一面があるわけがないじゃないか。
「ちょっと肩、貸してくれる?」
「えっちょっ……何……?」
 肩に重み。そして、消毒のような匂いが鼻に抜けた。
 あの教師の部屋と同じ。いくつもの薬品に錬金素材、資料に機密レポートや時々変な生き物がいるあの部屋。夕方あの部屋に入ると消毒のような匂いがする。
「寝不足と、あとは、まぁ色々あって疲れてるんだよ」
「髪の毛が当たってくすぐったいです、先生」
「えー……わかったよ、仕方がない」
 こっち、借りるね。
 肩から重みが退いたと思ったのに、膝上に重さを感じてどぎまぎする。この状態は誰がどう見ても膝枕だ。
「ちょっ、何やって……」
「疲れてるんだ。少し休ませて」
「あぁもう……って寝るの早……」
 すぐに寝息が聞こえ、膝上で教師が眠りだしたのがわかる。
 なんでそんな無防備なんだよ。てかここ外なのに誰かに見られたら……。
 まぁだけど、こんな祝祭の日に、わざわざ人気のない高台に来る奴なんて皆無だし、人混み酔いのヴィエラ族ぐらいなものかと思った。
「迷ってないで帰れば良かった」
 熱でもあるのではと、教師の額に触れる。熱は特になく、むしろ体温が低いくらいだった。しっとりと冷たい肌。興味本位で頬にも触れてみる。不意に優しく教師の手が俺の手を掴むものだから驚く。
 起きてるのか? と思ったが、変わらぬ呼吸を見ると、どうやら教師が眠りながらも無意識にそうしたようだった。
 心臓がなんだか煩くて、しばらくそのまま固まってしまう。
 メイド服なんて着て気分まで女子になったみたいでやっぱり早くこんなもの脱いでしまいたかった。

◇◇◇

 人間らしいところもあるのかもしれない。教師は人混みが実は嫌いで、時々無防備に寝顔をも晒してしまうような、普通の人間。
 一瞬でもそう思ったのが間違いだった。
 やっぱりあの教師は悪魔だ。最低の大人だ。
 廊下を歩けばすれ違う生徒達が不信の目を向けてくる。
 ──あ、噂をすれば。
 ──ねえ、見てあの子。
 ──先生はどうしてあんな地味な子を。
 好き勝手言う噂好きの暇人共めと心の中で悪態をついた。
「おーい、君、探していたんだよ」
 後ろから、普段馴染みのない他クラスの教師から声をかけられる。
「探してた? 俺をですか?」
「ああそうだ。院長先生が君を呼んでいる。院長室に行けそうかな?」
 もちろん、ここで拒否権などないのだから、俺は素直に従った。

「先般お話ししましたが、僕はエオルゼアにパートナー探しを一つの目的として来ていたんです。そして、まさに彼が、そのパートナーに相応しいと思ったわけです。つきましては、早急ではありますが、オールドシャーレアンに連れて帰ります。と言っても彼のご両親には既に了承を得ておりますので、院には事後報告となりますが、ね」
 両手を広げ、堂々たる動作と笑顔で話すヴィエラ族の男と、それを静かに聞いている院長と、そしてそのセリフを院長室の扉を開けた瞬間に聞き立ち尽くす俺という図はあまりにもシュールだった。
「来たか。さあ、事情は今話した通りだから、さっそく準備してくれ。リムサ・ロミンサの午後の便で立つ」
 それから先はあまりにもトントン拍子に話が進み、院長は何一つ否定もしないし、俺の意思を確かめようともせず、「かしこまりました。君、シャーレアンでもしっかり頑張るんだよ」とだけ返し、話が終わってしまった。
 頭の中が真っ白になる。とにかく、改めて問い正さねばと院長室を後にし、悪魔を引っ張って、研究室に向かった。
 道中、何人かの生徒とすれ違い、また突き刺さるような視線を向けられたが無視をした。今はそれどころじゃない。
 教師の部屋に入るとそこはまるでもぬけの殻だった。あれだけ雪崩そうだった資料も、棚にあった薬品の数々も、床に置かれた未確認生命体の入った箱もキレイさっぱり無くなっている。
「あんた、何言ってるんだ……あんなこといきなり言われて、はいそうですかなんて返事できるわけないだろ。強引すぎるんだよ。だいたいその、パートナーってどういう意味だよ。今朝、院に来てみれば他の生徒達から変な噂をされて、こっちだってわけがわからなくて迷惑してるんだ」
 朝から色んな生徒がうわさ話をしているのを聞き、肝が冷える思いだった。もしかして誰かに教師との夕刻の密会が見られたのかもとか、この間のフェトゥの日のことがいけなかったのかもしれないとか、いくつも頭の中をよぎりその度に罪悪感と痴態を思い出しては頭を抱えたくなった。
「パートナーはパートナーだよ。僕は君を専属グリーナーとして雇いたい。シャーレアン魔法大学では今、深刻なグリーナー不足なんだ。僕がエオルゼアに来ていたのもそのせいで思うように研究が進まなくなっていたのが要因だった。ここに来たのは優秀な僕だけのグリーナーを見つけるのも兼ねていた」
「え? パートナーってそういう……」
「他に何がある」
「あんたってやっぱ……」
 悪魔。心の中でめいっぱい叫ぶ。
「君がこのままエオルゼアに残りたいというなら、そうするといい。僕はここにはもう戻らない。二度と、だ。さぁ、どうする? 僕と一緒にシャーレアンに来るかい? 最後は君自身が決めるといい」
 教師の瞳が何故かやたらと不安そうに揺れているような気がして、なんでこの人に出会ってしまったのだろうと、ふと思った。

◇◇◇

 強引な手立てと策にまんまとはまり、シャーレアンに移り住んで数年後。俺は教授に連れられて学会の発表会に来ていた。
「教授、ほら、あそこの人、同じ錬金術の専門分野の先生でしょう。挨拶、行かなくていいんですか?」
「君が行ってきてよ。僕はあれの顔も見たくないんだから」
「俺が行ってもいいですけど、それではあとで後ろ指さされるのは教授なんじゃないですか? グリーナーに挨拶にいかせて、自分は学会の端でただ縮こまっていただなんて、そんなこと言われたくないですよね?」
「本当、学生の時は子羊のように可愛かったのに、今じゃ言うようになったね」
「そりゃ、貴方の隣にずっと居ましたから、口も立つようになりますよ」
 昔、まだ学生の時。蒼天街の青空の下で、この人をまだ教師と呼んでいた時。彼を人見知りだと思ったことがあった。あの時はそんなわけないと否定した仮説だったが、それが今となってはあながち間違っていなかったのだと思う。
 教授は思ったよりもずっと人見知りで、人を選り好みする。そして、人と喋っているよりも研究に没頭してる方がずっと楽しそうだ。
「あれには昔、希少な研究材料と、頼りにしていたグリーナーも横取りされた。まあ、どうせ使えないサンプルだったし、良いんだけどね。未だに僕から何か奪おうと隙きを見計らってるのがわかるんだよ」
「それは初耳です。じゃあ俺が一人で挨拶になんていったらあちらの勧誘を受けてしまうやもしれませんね」
「解せない。行ってくるからここで待っていてくれ、“僕の”大事なグリーナー様」
「それではお言葉に甘えて、待ってますよ」
 あ、スイッチが入ったなと思う。教授の顔にすっと生気が戻り、にこりと怪しく微笑む。あの八方美人の悪魔はこうして故意に作られていたのかと思うと、なんだか今となっては笑えてくる。
「いってらっしゃい」
 背中に声をかけるとフリフリと手を振られる。
 悪魔。そう思っていたのに、今はなんだか昔よりもずっと人間味を感じる人に思えている。

◇◇◇

 機嫌が悪い時のセックスは最悪だ。教授は腰を両手で押さえつけてくる。逃がさない。快感を一つも残らず受け止めろ。そう言わんばかりに、力強く。
 一端のグリーナーで、体力こそ自信があるはずなのに、その力強い腕から逃れることはできない。
 時より指の腹で、ここまで入ってると示すように腹の真ん中を撫でる。内側を教授のそれで抉られ、かき混ぜられ、外側からは確かめるように指先で刺激される。今一体自分達は何をしているのか嫌でも意識させられて頭がおかしくなりそうになる。

 最悪だ、と小さく呟く俺の声は教授の耳には届いていない。
 よりにもよって徹夜明け。機嫌の悪いタイミングで教授の元を訪れたのがいけなかった。
 おまけにすっかり忘れていたのだが、昨日はシャーレアン大学の学術研究発表会の日だった。そこには教授の苦手な研究者も出ていたはずで、この様子を見ればまた嫌味の一つや二つ言われたに違いなかった。
 オールド・シャーレアンの禁書庫。奥のさらに迷宮のような本だらけの部屋。滅多に人が来ないその場所まで手を引かれ連れられる。
 いけすかない研究者への腹いせで今日もめちゃくちゃにされるのだろう。引かれる腕の強引さからそんなことを悟ってしまう自分に呆れる。
 この人とはもう、結構長い間知った仲とはいえ、ここまで易易と受け入れるようになってしまった。本当に自分はこのままでいいのだろうかと甚だ疑問だった。
「くるし……っ……」
 苦しいと胸を押し返しても、徹夜明け、クマの増えた目でこちらを見つめるだけで少しも腰の動きを緩めてくれない。むしろ、左足を高く持ち上げられ、一層繋がりが深くなる。あぁこれは本当にヤバいやつだ。
 結合部から白濁が溢れ、垂れて床を汚した。ドロリと流れ落ちる感覚に、禁書庫という神聖で厳格な場所であってはならない行為をしているのだと頭の中で警報が鳴る。
「あっ……もう、やめ……も、終わりに……はっ、んっ、あッ……」
 普段研究室で研究ばかりしているくせに、思いの外力強い腕に腰を掴まれ、逃げられない。その間も、止むことなく腰を打ち付けられるのだからたまったもんじゃない。
 高い天井に、卑猥にも秘部がぶつかり合う音が響く。もう嫌だ。生理的に涙が流れ、次に体が痙攣した。
「あっ、あっ……もう、イクッ……」
 脱力し、教授にしがみつくようにもたれかかりながら、はーっ、はーっと肩で息をした。出すこともなくイッた感覚で、目の前がチカチカして、意識ごと飛びそうだ。
 下腹部に生暖かい感覚が広がる。同時に、太ももを白濁が伝い、流れ落ち、床を汚しているのだとわかった。
 腰に回っていた腕が今度は顔にそっと添えられる。ぐいと引き寄せられ、ただでさえ息ができなくて困っているというのに、深く口づけされる。
 付き合ってるわけでもないのに、こんなことをもう何年もこの教授と重ねてきている。薄情そうな瞳とは裏腹に情熱的な舌先がいつも呼吸をも奪う勢いで口内をなじる。その感触は別に嫌いではなかった。
 ようやく唇が離れたかと思うと、拗ねたような声が聞こえた。
「来るのが遅い」
「あんたが、大量にリスト押し付けてくるからだろ。何日紅玉海に籠もったと思ってる?」
 かすれた声で言い返す。
「それは君の手際が悪いだけだ」
「は? 深海の底まで潜ってサンプル採らせといてその言い方はない」
「遅いものは遅い」
「どんな理屈だ、それ。あぁもう、いいから服、返して下さい。こんなところ、魔法人形に見つかったらどうするつもりなんですか?」
「責任とってエターナルバンドでもするか?」
 時々言われるこの挨拶のような言葉に、反射的に首をふる。
「お断りします」
「本当に君は学生の頃からつれないね」
 耳を撫でられ、反射的にびくびくと震えてしまう。
「もう一度、してく?」
「しません」
 いつものようにイタズラに微笑む教授を見て、ちゃんと機嫌を直したのだとほっと胸をなでおろす。
 今度こそ教授の胸板を突き放した。
 服を引き寄せ、着直す。早くこんなところから出て、シャワーの一つも浴びたかった。
「はい、じゃあこれ」
 ちょうどシャツのボタンを留めたところで、さっと差し出されたメモ用紙には教授の筆跡で新しい収集リストがたんまり書かれていた。
「このタイミングでそれ、渡します……?」
「行ってくれないなら他のグリーナーに任せるけど」
「は? こんな無茶苦茶なサンプル採取好んでやる馬鹿が他にいるわけないでしょう?」
「そうだった。君以外にいなかったね」
 教授が嬉しそうに笑う。これは時々、二人だけの時に見せる笑顔。
「報酬、次もたんまり用意しといてくださいね」
「もちろんだよ」
「約束ですよ」
「僕は君との約束を一度だって破ったことがないだろう」
 その一言だけに説得力がありすぎて、やっぱりこの悪魔はずるいと思う。ああ、なんて人に従事してしまったのだろう。リストと教授の顔を交互に見つめ、溜息が出た。
「腹」
「ん?」
「腹が減ったので飯おごってください」
「もちろん。賢人パンがいいかな?」
「んなわけないでしょ。久々のシャーレアンなんだからラストスタンドに決まってる」
「残念。あれもなかなか悪くないんだけどね。じゃあ後程、ラストスタンドのいつもの席で」
 額にそっと触れるだけのキスをされ、俺は一度だけコクリと頷いた。

♢♢♢

エピローグ

 この関係を恋だの愛だのとすりかえてしまうにはあまりにも不誠実で都合のいい関係だと思う。首や耳に触れられ、頬に手をそえられればキスもいとわない。そこに心があるのかとか、本当にこの人のことが好きなのかとか、そういったことをゆっくり考える前にこういう関係になってしまっていたのは自分にも確かに責任があるのかもしれない。
 ラストスタンドで半ば空腹が満たされたところで、教授に聞いてみた。
「教授は、誰とでもキスできますか?」
「何を言い出すのかと思えば」
 驚く風もなく、教授はそのまま本のページをゆっくりと長い指先で捲りながら言った。
「で、どうなんです?」
「僕にそんな暇ないよ」
「暇とかそういうのじゃないんです」
 また突き放す。聞いた質問にやや斜め上の大人が子供をあしらうような返事が返ってくるのはいつものことだけど、そうやってはぐらかされるのはそろそろうんざりだ。
 本をパタンと閉じた教授がにやっと口許を弧にする。
「しいていえば、可愛くて、美しくて、素直で、年下で少しくらい口の悪い男ならしてしまうかもしれないね」
 じっと見つめられながら言われてドキッとする。思わず目を逸らした。
「君は?」
「俺ですか? 俺は……」
 考えてみたらこの人の体しか知らない。初めて唇に触れられたのも、自分から触れたのもこの人だけだった。そして、この人以外に経験があるかと聞かれれば、したことがなかった。
 貴方だけですよ。そんなこと、口が裂けても言えない。
「想像の通りだと思いますよ」
「ふーん。じゃあ僕はそろそろ行くよ。君はここでもう少しゆっくりしていくといい」
 本を持ち上げ、とっとと立ち上がった教授。今日もまたこの人のことがよくわからないまま終わってしまうのかと、内心ガックリした。雲のように掴みどころがなく、蝶のように気まぐれな教授の心がさっぱりわからない。
 そのまま横を通り過ぎて行ってしまうのかと思ったが、違った。
「早く堕ちてしまえばいいのに」
 ふいに耳元で囁かれる。教授を振り向けば見えるのはその背中で、俺はきっと睨みつける。
 この悪魔。その背中に向けて心の中でめいっぱい叫んだ。